2016年11月25日

私的ACライナーノーツ:『ハイベン』と新宿コントレックスvol.15

そもそも「AC」という言葉がアガリスクにおいて何を指すのか知らない人も多いだろう。最近おれたちすら使ってないし。
アガリスクのメンバーがゴソっと抜けた時期があって(そもそも人数少なかったけど)、おれと塩原と冨坂で「このままじゃなんともならん!」と閉塞感を打破するために、「短尺でも発表の場を」「他劇団との競演の場を」という話からギリギリのマンパワーのなかで無理矢理立ち上げたのが新宿コントレックスであり、その際に少人数ゆえのドメスティックかつニッチな表現−「アガリスクのコント」つまり「AC」、という公共広告某みたいなブランドをブチ上げよう、と思ったのである。
振り返ってみると、本当にそこには発見と出会いとがあった。『エクストリーム・シチュエーションコメディ』に代表されるACでの成功例(もちろん二度と日の目をみないであろう作品も沢山あるが)は、その後の劇作に大きな影響を与えた。国府台高校以外なんの演劇的バックボーンも繋がりも持たない我々に、現在まで続く仲間やライバルという"関係"ができた。
大袈裟でなく、あそこでコントレックスを始めていなければ、ACを作っていなければ、アガリスクエンターテイメントは潰れていただろう。

さて。
劇団的にはおそらく年内最終興行となる新宿コントレックスvol.15。アガリスクは新作である『ハイベン』というネタをかけた。劇団員加入ラッシュとなった2016年を締めくくる、全員参加with矢吹ジャンプ(ほぼ劇団員)という「ドメスティック」なメンバーで、「食中毒対策で排便を規制された給食センター」という実話を元にした会議コメディという「ニッチ」なネタを書き下ろした。
コントレックス全体の総括としては、間違いなく今までのコントレックスで一番の盛り上がりだった。単純に動員(ほぼ満席)でもウケ(頭のMCからカーテンコールまで)でも、なかなかこういうイベントはないんじゃないかな、てステージだった。
なにより、4団体が4団体とも「笑いを獲る」姿勢が強くて、というよりそこにストレートだった。そしてその姿勢に結果が伴っていたことが、イベントに勢いと一体感とをもたらしたのだと思う。
いつも言ってるけど、コメディは形式(スタイル)じゃない姿勢(アティテュード)だ。そして結果(ウケること)だ。競演者だけでなく客席も含まて、その姿勢と結果を共有していたと感じた。それは正直、いやあえて書いてしまおう、黄金のコメディフェスティバルでも感じられなかった部分だ。コメディのコメディによるコメディのための、そういう評価軸。笑いを獲るためにセリフがあり俳優がおり物語がある。「笑い」は添加物じゃない手段じゃない、本質で目的であるはずだ。コメディと名乗るなら。

で、そうそう『ハイベン』という作品について書くつもりだったのだ。まあタイトルも含めてセルフパロディ臭がするし実際そういう部分もあるのだが、前述したように実際にあった出来事から着想を得ている。食中毒を起こした給食センターが勤務中の排便を禁じる、、、既にネタでしかないコレを、アガリスクお得意のパターンに持ち込んでコメディにする。正直、初手で勝ち筋が見えた。
まあスジが見えてても難航するんですよ、ネタ作りは。
人数が増えた分、当然キャラクター数も増える。それに伴いシーン数もネタ数も膨らむ。ここが最後まで尾を引いた。せっかく稽古で出たネタを間引いて間引いて、やっと完本したと思って読んでみたら35分。持ち時間は25分。泣く泣く更にカットする。
結果として、展開が多い割に薄味の印象になってしまった。多分もう少し整理、例えば複数の情報をレイヤー処理したりして圧縮すれば、その分だけ丁寧に描けた部分はある。が、進捗的にそこまで手は回らなかったのが悔しい。
なにより結局、この尺で演るネタだったのか、という疑問が残る。60分くらいは平気でいける。あと限られた尺でこの人数を「キャラクター」として扱っていくことが果たしてできるのか、という議論もある。これは、「ACはメンバー全員で作る」というこれまでの方針にも関わる、大きな課題になるだろう。
いきなり大反省してしまったが、もちろんガッツポーズすべき点もある。なかったら泣いてる。「ウンコでちゃんと笑いを獲る」、これはある意味挑戦だった。下ネタ(の定義には議論の余地がある、エロネタと汚物ネタは同種の笑いなのか?ここでは触れないが)を嫌う人、また面白くても声を出して笑わない人は結構多い。更に、これはおれの感覚的な偏見だがシチュエーションコメディやパズラー的コントを好む層では、もはや多数派ではないかと思っている。
徹頭徹尾ウンコの話題で、アガリスクの、コントレックスの客層を笑わせる。この部分に関しては決して楽観視できなかった。あまつさえ劇中でウンコをした(した蓋然性がある、も含めて)のは全員女優である、よくやったなあと今でも思うが。『ハイベン』はある意味で『わが家の最終的解決』くらいウケるかどうか不安だった。しかし、蓋を開ければ(もちろん好みの部分で合わなかったという声もあるが)、そういった課題はクリアされていたように思う。いや、マジで女性に野糞させるコントでみんなよく笑うわ。最高だぜ。

取り留めなく色々書いたが、まああの頃から比べたらレベルはだいぶ上がったけど、コンセプトや姿勢は全然変わらない、久しぶりのコントレックスと久しぶりのACでした、て話です。

またすぐにでも、やりたいねえ。






posted by 淺越岳人 at 16:03| Comment(1) | TrackBack(0) | 芝居 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月18日

君の名は、白。

『君の名は。』、楽しんだか楽しんでないか、という観点から言えば「まあまあ」だった。
序中盤の「『転校生』パート」のPV的処理はRADWIMPSの劇番も相まって(ここを丁寧に描く必要はないのか、との疑問はあれど)多幸感があったし、新海作品だけあって「止め絵の美しさ」と「アニメーション」が共存している画面作りはさすがである。
が、そういう「作りたい画」が先行してそこに至る過程の描写−つまり"萌え"が不足している。また根幹の設定に対するツメの甘さ、更にはそのルールすら終盤であっさり破綻させる部分(そのまま行った方が泣けるじゃんポイント)は、好みの問題も大きいが決して構成が上手いとは思えなかった。あとRADWIMPSが歌い上げ過ぎて、おれが映画(とくに邦画)で苦手な「こちらの感動を追い越して泣かせにかかる演出」になっていたのがなんともキツかった。


しかし、である。
それでもおれは『君の名は。』は素晴らしい映画だと思う。後々まで語り継がれる映画だと思う。全体的に穴は見えるし語り口も好みでもないが、あるワンカットゆえに、おれはこの映画を評価せざるを得ない。
そういう一瞬がある映画だったのは、確かだ。その一瞬、間違いなく映画館でおれは感動していたんだ。

パンチラ。
覚えていない方もいるかも知れない。『君の名は。』の感想を何人かと話したが、「そんなシーンあったか?」と言われた。
ばかやろう、である。
言葉乱れてしまうがあのワンシーンこそ今作が日本のアニメーションに一石を投じているポイントだろう、と。

何を描くか、とは何を描かないかである。よく言われる言い回しだ。
まず押させておくと、おれが思うアニメーションの快楽とは文字その名の通り"動き"にある。静的な絵に動きを与える−まるで"活きて"いるかのように。もちろん完全にそれを動かすことはできない、どれだけリアルに動こうともコマとコマには"空白"ができる。枚数を描けば描くだけ、リアルには近くが、それは近似値に過ぎない。更には実際の現場は時間的予算的技術的制約の中(たとえ劇場版)そこまで描きこめないことが多い。そうなってくると、むしろ「リアルな描きこみ」より「何を描かないか」というディレクションが重要になってくる。本質的に何をもって我々はキャラクターの動作を「リアルだ」と感じるのか?"写実"を目指すための"省略"、そして"省略"できてしまうからこそそれを避けるリアリテイへの"徹底"、それは執念と言い換えてもいい。『風立ちぬ』『かぐや姫』なんてその産物だ。ワンアクションへの偏執的拘りがありつつ、平気で嘘(フィクション)の動きをさせる。省略と徹底、一見レトリックに聞こえるがアニメーションの快楽はここから生まれる。

で、『君の名は。』の話だ。
まだパンチラシーンがどこか思い出せない方のために説明すると、終盤、口噛み酒を呑んだ瀧が水葉と再度入れ替わり、村人を避難させようと奔走する場面でのことだ。
万策尽きた瀧(身体は水葉)は最後の手段として水葉(瀧の身体で御神体の所にいる、時系列的には設定おかしいが)を呼び戻すため、自転車で山頂を目指す。
必死に山路を登る瀧(しつこいが身体は水葉)、流れる汗、上がる息、立ち漕ぎ、ここで、パンチラだ!しかも白だ!
、、、我ながら妙なテンションである。

このパンチラシーンの凄さは、「さり気なさ」だ。
前述のように、あまりにも自然過ぎて観た人の印象に残らない。だから凄いのだ。
現代のアニメ(またはアニメ的演出の)作品で、パンチラは使い倒されている。女子のスカート丈はパンチラ合わせ、無用なローアングル、なぜかツッコミはハイキック、それはもはやパンチラのためのパンチラだ。チラリズムなんて奥ゆかしさは消え失せて、「見せときゃいいんだろ」と言わんばかりの大量生産。見えるからいいんだろ見せるなよ、の声も虚しく響き渡る。
しかし『君の名は。』のパンチラは氾濫する乱造粗製のパンチラへのカウンターだ。自転車に飛び乗ってからの疾走感溢れる編集と細かいモーション演出がまずあって、そこから極々自然に動きのなかでよパンチラ、なのだ。先ほど書いた、アニメーション的快楽満載のアクションの帰結としての、「そう、この画角でこのアクションなら見えるよね」というナチュラルなパンチラなのだ。説得力が違うのだ。しかも見えたか見えないかいや確かに見えた、という絶妙な尺で。パンチラは本来、こういった偶然と状況とタイミングが作り上げる、"奇跡"でなければならない。だから素晴らしい。パンチラをしようと思ってやるパンチラはパンチラではないのだ。
また、水葉のスカート丈は一般的なそれであり、余程全力で立ち漕ぎしなければパンツは見えない。そう、このパンチラはだだのパンチラではない、「全力」を表現するための物語的意味も兼ね備えたパンチラなのだ。
このように、『君の名は。』のパンチラは即物的簡易エロ表現サービスカットと一緒にしてはならない。

もうひとつ、先ほどから何度も断り書きを入れているが、あくまでパンチラしているのはヒロイン水葉ではなく、主人公の男子、瀧なのである。『君の名は。』のアニメーションの凄みは、ちゃんと男女の入れ替わりをアクションで表現していること。キャラクターの動きが、男性的・女性的に目に見えて変わるのだ。また、主演2人の声優としての芝居の上手さもあって、単なるよくある設定としての「入れ替わりモノ」ではなく、高いレベルでの表現になっているのだ。
「あくまで瀧のパンチラである」というのはもちろん、「女性キャラにはパンチラさせろ」というセクハラ的表現(もはやミソジニーだと思う表現に溢れている現状を鑑みるに)へのエクスキューズでありアンチテーゼ、と読むこともできる。しかしおれはそれと同時にこのシーンが、パンチラが本来持つ"聖性"をも表現していると感じた。なぜなら、少なくともおれは、それが男子高校生のパンチラなのにドキッとしたから。たとえ瀧くんのでも、「白だ!」と思ったから。それだけのインパクトと多幸感が、パンチラにはあるから。
現実でパンチラを目撃するとき、我々はどういう状態だろうか。まず全く身構えてないので、「まさか」との驚きがある。そしてどうしようもない罪悪感と背徳感とそれでも「ラッキー」という不純な喜びがある。そこで初めて、誰のパンチラかということを確認する。ときには確認して後悔する。
そのリアル・パンチラと同じ思考を辿れるのが『君の名は。』のパンチラシーンなのだ。アニメーションの流れの中での突然のパンチラ、驚きと罪の意識と幸せ、そこからの「瀧くんかよ!」、、、これがアニメの持つ、リアリティの力だと思う。

パンチラなんて死んだ表現だと思っていたおれに、新鮮な感動を与えてくれた『君の名は。』、間違いなく2016年を代表する一本だと思う。

だからこそ、SF的ロジックと過程の描写を丁寧にやってくれよ!もったいないよ!なのである。















posted by 淺越岳人 at 16:53| Comment(0) | TrackBack(0) | ラグランジュプロジェクト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月07日

「いつもの」と「はじめての」のあいだで

なんか、芝居を、している。
こういうこと書くと「いつまでも『僕なんて俳優じゃないですー』みたいなポーズやめろや」とか怒られそうだが、実際のところの事情として実感しているのは事実なのだ。

仕事して、コントレックスでかける新ネタ『ハイベン』の稽古して、終わり次第その足で『Short Cuts2』の稽古へ。短編ながら3本の芝居を並行して稽古しているわけだ。慣れないことをやっているのだ、「なんだそれ、マジかよ」とくらい思わせてくれ。

その人の固有の武器、「持ち物」がエンターテイメントになる瞬間は、珍しく稽古が楽しくなる。そんなことタマにしかないけど、今日の稽古のハシゴの中で、どちらでもその瞬間に立ち会えた気がする。
まあ、大体の人間は「持ち物」なんて持ってねえんだけど。たとえ持っていてもエンターテイメントとして発現できるなんては更に稀なんだけど。
おっさん臭いことを書くと(今日『若く見える』と仕切りに言われたので余計に言いづらいが)、おれは器用で達者なバイプレイヤーより、唯一無二しか持ってない特攻野郎と芝居する方が、単純に楽しいのだ。あと直向きさくらいあれば、それでいいのだ。
ま、おれの「楽しさ」なんて芝居のクオリティにはそんなに関係ないのだけど。
でもまあ、「いつもの」と「はじめて」の間を行ったり来たりしつつ、想像していたよりずっと楽しませてもらっている。

ま、あとは、結果だよね。芝居なんだから。エンターテイメントなんだから。

ただ、これは『Short Cuts』のことだけど、そして更にオヤジ臭い余計なお世話だけど、この「演劇界」とやらに足を踏み入れてくれた彼女に、なんかは持ち帰って欲しいのよね。そこは共演者として。末端とはいえこの世界の住人(まだまだ居心地悪いけどなっ!)として。
そして願わくば、その持って帰る「持ち物」が「ウケたという経験」だと素敵よね、とか思うのだ。だっておれは"コメディ俳優"だもの。あの気持良さは、他人より知ってるから。

いかんなあ、慣れないことやっていると柄でもなくなる。


posted by 淺越岳人 at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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